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健康に感謝するということ

 健康を損なっている人からすれば、健康なら幸せ、という言葉を聞くと心が傷つくかもしれない。自分は健康ではないということ。「健康なら幸せ」の「なら」の部分が損なわれている自分は不幸。

 これは推測だ。
 実際に嫌な気持ちになる人もいれば、平然としている人もいるだろう。

 下記に記したことで、人を不愉快にする可能性がある。「健康なら幸せ」という部分について書くつもりだからだ。それについて、気分を害する人は、読まないほうが健康のためになるだろう。

 

 健康なら幸せだというのは、自分のことではない。
 親目線で、子供のことを思った時、何が幸せかと考えると「健康」以外ないだろう。

 可愛さや賢さがあれば幸せと考えるのは、親のエゴだ。本人がそれについて考えることは悪いことではないが、親がそれを求める必要はない。可愛さや賢さを求める親は、子供に自分を重ねて見ているだろう。子供の人格を尊重して、そのふたつがあることが幸せと考えているのではなく、子供が可愛いことで自分のステータスが上がることを喜んでいるだけだ。

 断定するのは危険な思考だ。


 ネパールの自身の事件を見て感じることは、命はいつ失われるかわからないということだ。
 地球は絶えず変化している。地表で生活している豆粒いかの人間はそれに翻弄されて、命を失う場合がある。どんなに綺麗でも、金持ちでも、賢くても、災害に巻き込まれれば、その生命は等しく傷つくのだ。
(この論理からすると、健康を残っていても命があることの方がありがたいとなるなぁ…)


 直感で思いついただけだから、論理などない。
 ただ親が子を思った時、ブサイクな子供でも、バカでも、貧しくても、健康なら幸せなのではないだろうか(自分が)。子供はその健康な体を持って、ブサイクなところを直したり、勉強するなり、金持ちになったりすれば良い。子供の人生は子ども自身で歩めばよいのだ。
 親は、その子供が健康でいてくれれば、それだけで幸せなのだ。
(感傷的すぎたかな(笑))