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名探偵コナン 静野 辞めてほしい

フールーにて異次元の狙撃手が見れるようになっていたのでちょっと見てみたのだが、それがいけなかった。すっかり忘れていた、名探偵コナンの映画に対する絶望を思い出すことになってしまったのだ(笑)。

絶望とは、ストレートに言えば、映画コナンのリアリティの無さからくるつまらなさである。以前のブログでも書いたが、コナンがフリーランナーよろしく超人的なジャンプをしたり、道路の真ん中を突っ切ったり、地に足がついていない。アクションが良いのは、限られた制約の中で、必至に体を動かしているからこそ、そこにリアリズムがやどり、視聴者が熱くなれる。例えば、魔女の宅急便の最後、デッキブラシで飛ぶところは、観客やキャラクターが飛びたい、飛んで欲しいと思ったから、飛ぶという奇跡が起こりカタルシスが生まれた。なぜ飛べたか、理由は明らかではない。ただ願ったから飛べたというだけの話なのだ。この説明のない奇跡が許されるのは、観客も一心に飛んで欲しいと願ったからだ。だからこそ奇跡は生まれたのだ。
対するコナンは、ピエロのように監督の道化に成り下がっている。観客を凄いと思わせるためのシチュエーション、アクションをやらされていて、そこにキャラクターの心情や行動の必然性が現れていないのだ。無意味に派手。浅はかさが目に見えて、低能な人間ならそれに騙されるが、普通の人はその意味不明さについていけないだろう。

コナンが倫理道徳を外れる行動をしていることに、意味がなさすぎるのだ。初期も道路をスケボーで走るという描写があったが、それによって他の車を巻き添えにして自己を誘発させるということをしていない。事件解決するというエゴで、交通事故を起こして良いはずがないだろう。初期のコナンはこれがわかっていた。
しかし、現在のコナンは静野の操り人形となっている。画面の派手さを意識するあまり、意味もなく道路に飛び出し、そしてトラックに引かれそうになり、それを避けて乗用車とぶつかりそうになり……etc。呆れ果てるばかりだ。
事件を解決するためなら、事故を起こしてもいいというスタンスには呆れ果てる。

演出家の未熟な精神が投影されていて、最初の15カットで違和感と駄作感が伝わってくる。そして、自動車事故や、高速で走る車から飛び降りて、転がることもなくそのままコナンたちを守ろうとするFBI(だったはず)の動き、銃撃戦、そこでもう満足になってしまう。いや、正確には満足ではない、ゲテモノ、腐ったものを食べさせられそうになると直感して見るのをやめてしまうのだ。

ただ、残念なことに、この作品は日本のアカデミー賞のアニメーション部門で賞をとっているらしい。2014年はこれを選ぶしかないほど不作だったのだろうか?
誰が選んでいるのかしらないが、こんな子供だましにもならない塵が選ばれるとは、アカデミー賞の品性のなさが伝わってくる。所詮日本のそういうところは既得権益者によって汚されているのだ。

鈴木敏夫の名言で「どんなつまらない映画も、ヒットさせることが出来る」というのがあるが、まさに異次元の狙撃手はそのたぐいのものだ。静野がコナンから外れないかぎりは、今後も最初の3分で見るのをやめてしまうのだろう。非常に残念だ。
初期のコナン(と言うより、監督の才能・技術)があまりにもよかった。単にそれだけかもしれないが。
いつかは、面白いと言えるコナンの映画を見たいものだ。
そして、静野監督が辞めてくれることを非常に強く願う。