権力がないのがニコ生主なのです
またも、ノエル少年がらみの話ですね。川崎のいじめで殺された少年のお通夜に生放送に行ったそうです。
正直、悲しんでいる人を放送するのはどうかと思いますね。おそらく大半の人は不快感を示すのではないでしょうか。
彼の放送は、親族か川崎少年の友人によって止められたそうです。結末としては当然だったと思います。これに対して「なぜマスコミは止められないのに、自分だけが放送を止められたのか?」と疑問を投げかけていますが、これは単純に個人として活動しているニコ生主が何の権力もないからでしょう。マスコミの撮影も、親族や友人にしてみれば見せ者にされているのと同じことです。個人・企業問わず、撮影はやめて欲しかったはずです。
ではなぜ個人生主が止められたのか。企業は止められなかったのか?
その理由は、相手が企業であることが原因です。
彼らを止めようとすると、まさにノエル少年が振りかざした弁論と同じことを言って、撮影を強行します。そしてあっという間に全国放送に流されてしまうでしょう。しかも、ニコ生主よりもたちが悪いのは、事実を湾曲して報道する場合があることです。すべての放送で、嘘が放送されていることはないでしょうが、頭に血が上った放送屋が一般市民がプライバシーの侵害をし、名誉毀損につながるような放送をしないとは限りません。これまでのテレビが歩んできた道を鑑みてみれば、逆らう気が失せるでしょう。
イギリスのダイアナさんが、執拗なパパラッチに追い掛け回された挙句、交通事故で無くなったケースも、報道の欺瞞の結末です。
さらに放送局は、裏で政治家や警察とつながっている場合が多々あります。警察が個人と放送局側を相手にする場合、対応が変わるのは、自然な流れということがわかります(警察の敵となる場合もありますからね…)。
これらのことを考えると、ニコ生主だけが放送を止められることは必然といえるでしょう。
彼だけが権力を持っていなかったのですから。
<ここから話が変わります>
彼の主張は、もっともなこともありますし、荒唐無稽で意味のないこともあります。
これらの議論をニコ生で放送し、論破していっているわけですが、実はこの論破すること自体に彼の正当性を示すことはなにもないのです。
なぜだかわかりますか?
例えば想像してみてください。
弁護士と検察官が言いあいをして、論破したほうが裁判で勝ちますか?
違いますよね。
弁護士と検察の主張、被告人の話、証言者などの話を、平等公平な立場で裁判官と陪審員が聞いて、どちらの主張が正しいのかを判決します。
ニコ生の一方的に相手を丸め込んで話せなくするのは、それはただの言い合いでしかありません。口がうまいほうが勝つだけです。もしくは相手の出方を探って適当な受け流しをしている方が勝ったようにみえるだけでしょう。
ひろゆきさんと勝間さんの討論の様子がネットにアップされていますね。この動画の勝間さんの話し方については色々疑問が残るところですが、ひろゆきさんが論破しているというのは少し違うと思います。動画を見るとわかりますが、ひろゆきさんが勝間さんをやりくるめるところがとても気持ちいいんですよね。このやりくるめているところが、視聴者取って気持ちいいために、論破しているようにみえるのです。
しかし世の中にはひろゆきさんと同じ意見の人もいれば、勝間さんと同じ意見の人もいます。どちらとも言えない人もいるでしょう。もし議論について、評価判断したいのであれば、ふたりの主張に対して公平な立場で判断できる複数人の陪審員によって、精査した上でどちらの主張が正しいのかを決めるべきでしょう。
そこで初めて、論破したと言える状態になります。
話を戻しましょう。
正直なところ私は、ノエル少年の行動に対して何がどうなっているのか、善なのか悪なのかよくわからないのです。
今の時代そういうものとも思えるし、倫理観、道徳観の観点からあまり良くないとも思えます。これらの良し悪しは、結局のところ投票によって決めていくしか無いと思います。
日本が民主主義国家であるなら、検察(ノエル少年)と弁護(アンチ)の二者だけの会話で、その善し悪しを決めるのではなく、民意を問うてみるべきなのです。
ファシズムであれば、言いくるめた方・武力によって鎮圧した方が勝ちです。しかし、日本はそうではありません。自分本位な論破で意見を通したいのであれば、日本ではない何処か別の国に移住することをオススメしますかね。
最後に一番最初に上げたお通夜を放送することについて考えてみるのですが、倫理・道徳的にあまりよい行いではないと思います(←これはただの一票でしか無いですね)。静かに故人を見送りたいのが家族です。人が死んで悲しんでいるときは、マスコミだろうが、個人だろうが、ジャーナリズムとかも関係なく、そっとしておいてあげるのが、人間の道理なのではないでしょうか。