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ブログです。

信仰と厄落としについて

金運を高める神だか仏さまがいて、毎年年始にお参りする。
年始だけではなく、連休になると神社めぐりをしてご利益(ごりやく)を得ようとハシゴで参拝する。

別に、そういう生き方を否定するわけではありませんが、参拝して何に成るのだろうと冷めてしまいます。
参拝することで、心の平穏を得られるかもしれません。
しかし、人生は所詮確率です。

どんなに神様を崇めていても事故に巻き込まれて死ぬときは死にますし、無信仰でも病気にも事故にも合わず寿命をまっとうする場合もあります。
人生はその人がどのように歩いていくかを決めるものです。誰かが「こう歩きなさい」と指示してくれることも有りますが、それ聞く・聞かないは本人の選択によります。最終的に人生の進む道は自分自身が責任をもって決めざるをえないのです。

信仰に真摯に生きることも、適当に生きることもその人に与えられた自由なのです。
長々と書いてますが、一貫して「信仰する気持ちを持つことを否定しない」と記しているだけです(笑)。


信仰は自由と記しつつ、ご利益を得るために貴重な人生の時間を使っても良いものかと、疑問があることは正直に書いておきましょう(笑)。
参拝しに出歩いている暇があったら、日雇いのバイトをするほうが、お金が手元に入ってきます。将来に向けて勉強したほうが、もしかしたら時間を有効に使えるのかもしれません。参拝することで、ノーストレスになって、仕事や勉強が捗るなら時間を消費して参拝するべきだと思いますが、惰性で行動しているならちょっと立ち止まって検討してみても良いのではないでしょうか。


厄年になると、厄落としをするそうです。
でも、厄があっても良いじゃないですか?
悪いことを全部なくすことは出来ません。いちいちお祓いして厄落としするより、人生のスパイスとして、厄と一緒に生きていくことだってたまには面白いのではないでしょうか。

病気になった時、自分の人生は真っ暗だと感じる時がありますよね。
でも、真っ暗でも死ぬわけではありません。
病気と一緒に生きていくことで、真っ暗な人生に光が差し込む瞬間があるかもしれません。全部を否定して生きていると、何か躓いた時に絶望に打ちひしがれるでしょう。
この絶望は、悪いことを否定して、遠ざけてきた罰です。

はじめから、厄とも一緒に生きていくと覚悟をしていれば、何が起こっても受け入れて、そして前向きに生きていけると思います。
極論ですが、厄は落とす必要はないです。