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好奇心と嘲笑と器の小ささ

職場で「以前の職場で『なぜ人が戦うのか』ということを調べていた同僚がいた」と聞こえた来た。
それに続いて、その行為をあざ笑う言葉と嘲笑。


これって、笑うことだろうか?

何かに好奇心を持って、取り組むことが悪い行為だろうか?


何を隠そう、隠してないが、20代前半は、自分もそういう本を読んでいたため、すこし嘲笑われることに疑問が生まれた。
2000年代に入っても、人間はイラク戦争だなんだかんだやっている。戦うということに興味を持って、それを調べることは全然おかしなことではない。少なくとも、過去に遡れば、そういうことをずっと考えてきた偉大な哲学者がいる(念のため書いておくが、偉大な哲学者がいることが、おかしさを軽減するという意味ではない)。
誰だって、真剣にそれについて考える種は植えられており、発芽するかしないかだけの話でしか無いのだ。テレビで放送している格闘技における闘争本能や、身近なところではいじめなども、「戦うことへの疑問」につながっていく。

……ちょっと飛躍しているな。


例えば、いじめの問題。
これをただ悪い行為と批判するだけで良いのだろうか?

なぜそれが起こるのか、真剣に考えて、研究している人が今現在もどこかにいて、その人が心血注いだものを論文として発表する。この論文を元に何かが変わるかどうかは分からないが、少なくとも、いじめが起こる原因について、理解出来るチャンスがあるかもしれない、という程度のものだろう。

しかし、テレビで聞き流すよりも、調べてその論文に辿り着き読破することで、その人は、少しだけいじめに対して理解を深めることが出来る。加害者や被害者に対して、ただ野次を飛ばすだけではなく、なぜそうなったのか、理解を示すことが出来る(かも知れない)。


……話が脱線している。


いじめにしろ、戦うことにしろ、好奇心を持って調べることは尊いことだと考える。
べつに調べなくても、生きていける。勉強なんかしなくても、幸福に余命をまっとう出来る人はいる。調べるということや、好奇心を広げることは、個人の自由なのだ。


そう。
これらは、個人の自由だ。

他人の生き方を批判することは、誰にもできない。批判はただの嘲笑でしかなく、生産性のかけらもない下衆の極み。なぜ自由に考えて行動したことを批判するのか?
それは、調べないということ、勉強しないことに対する引け目……。

<strong>無意識に、他人を否定して、自分を正当化しようとしている器の狭さ……。</strong>


うん。
好奇心を持って、何かに取り組むことは、全然笑われることではない。
笑うべきは、他人を否定することでしか自分を保てない器の狭さ。

でも、器の狭さ、小ささも。
その人の個人の自由……。
だから、それも否定はできないのか。